2012年御翼9月号その4

オペラ歌手より主の歌手へ ジェニー・リンド

 

 スウェーデン生まれのジェニー・リンド(1820〜87)は、イギリスのオペラ界で人気絶頂のプリマ・ドンナ(オペラの主役歌手)であった。ジェニー・リンドは、童話王アンデルセンから熱心に求愛された女性、そして作曲家のメンデルスゾーンへ熱い想いを秘めた歌手だった。
 クリスチャンの養父母から善い信仰を受け継ぐ。9歳で王立劇場付属学校に入学を許可されたジェニーは、17歳でオペラ界にデビュー、国民的アイドルとなる。1843年、アンデルセンは22歳になったジェニーに片思いをする。彼は、ジェニーの親友である知人に、彼女のことをあきらめるべきなのか手紙で相談すると、知人は以下のように記してきた。「敬愛するアンデルセン。数日前にジェニーと会い、あなたのことを伺いました。率直に言わせていただいて、あなたはまだ、ジェニー・リンドの本当の素晴らしさをお分かりになってはおられないようです。真に彼女の人格に触れたなら、あなたは、全ての人は神の前に平等の権利を持ち、お互いに愛し合うべきことを知るでしょう。私が言う愛とは、恋愛感情のことではありません。ジェニーの、偽りのない心の内を知りたいと思われるのでしたら、どうぞ、彼女が求めてやまない、神の愛の気高さと慈悲深さについて、ぜひ語り合ってみてください。そのとき、あなたはジェニーの、敬虔で汚れのない瞳が輝くのを見るでしょう」と。 
 これを読み、アンデルセンは、ジェニーから愛されているかどうか、という思いに終始していた自分を恥じた。その後、アンデルセンは思い直したように創作に心を注ぎ、「アンデルセン童話集」の第一巻を出版する。特に、「ナイチンゲール」は、「スウェーデンの夜鶯(ナイチンゲール)」と言われたジェニーに贈ろうと、二日間で書き上げた童話だった。アンデルセンは、出版されたばかりのこの童話集を、さっそくジェニーに送った。ジェニーはお礼の手紙にアンデルセンを「お兄様」と呼び、その後は、信仰の兄弟として慕い、交流を続けた。アンデルセンは、「ジェニー・リンドによって、私は初めて、芸術の崇高さを知りました。人が最高のものに奉仕しようとするとき、自分というものを捨て去らなければならないということを、私は彼女から学んだのです」と自叙伝に記している。                 
 一方、ジェニーは、音楽活動を通して神の栄光を表そうとしていた作曲家メンデルスゾーンに思いを寄せる。しかし、メンデルスゾーンには妻子があり、愛しても、結ばれることのない哀しさを、お互いに分かっていた。二人は英国でのコンサートに一緒に出演する音楽パートナーであったが、ある日、メンデルスゾーンは、娘のマリーが病気だと言って、ドイツに戻る。娘は病気などではなかったが、それは彼がジェニーのもとを去るためについた悲しい嘘である。愛ある別れの決断だった。その後、メンデルスゾーンは、すべてを忘れようとするかのように、創作活動に没頭し、次第に健康を損ねていった。そして1847年、ジェニーが26歳のとき、メンデルスゾーンが38歳で急死する。ジェニーは、親友への手紙にこう記した。「彼こそ、私の魂に、生きることの喜びを与えてくれた、ただ一人の方だったのです。そんな方に、やっとめぐり会えたと思った矢先に、もう失ってしまうなんて…」と。そして、ジェニーは、自分の心の中にあるメンデルスゾーンへの絶ちがたい愛を知り、その罪深い自分の思いを、神の前に告白し、赦しを請うたのだった。ジェニーは悲しみから逃れるように、1847年、オペラ歌手ジュリアス・ギュンタと婚約する。彼女は結婚を機に、オペラの舞台をやめて、家庭に落ち着きたいと願うが、ギュンタは、ジェニーの引退を惜しみ、反対し続ける。彼には、ジェニーとの共演なしに、オペラ界で活躍していく自信がなかったのだ。ジェニーは半年後に婚約を解消した。
 新たな思いで歌に生きようと決意したジェニーは、恵まれない人々のために、慈善コンサートを重ね、多額のお金を捧げた。そして、許されぬ愛に苦しみ、最愛の人を亡くし、結婚の夢も破れた苦難をすべて、神から与えられた試練として受け止め、全てを最善にしてくださる神をたたえるため、ジェニーは教会で讃美歌を歌うことが多くなる。そんな当時の彼女の印象を、ショパンはコンサートの後、こう語っている。「ジェニーは、普通の光の中にではなく、まるでオーロラの光の中に現われる人だ」と。ジェニーは神のためにのみ歌いたいと願い、デビュー10年でオペラ界から引退する。マネジャーは、ドル箱であったジェニーを手放したくないため、何度引退を頼んでも聞き入れない。そこで彼女はある晩、舞台でドラマが進行してゆき、彼女が最も得意とするところを歌うシーンにさしかかると、立ったまま沈黙をきめこんだ。皆が驚いていると、突然彼女は静かに讃美歌を歌い始めた。終わって、こうするより仕方がなかった事情を話し、今後は神様のために歌いたいと言って了解を求めて、静かにステージを去って行った。会場は騒然となり怒り出す人もあり、感動して感涙にむせぶ人もあったという。
1852年、ジェニーは、メンデルスゾーンが推薦してくれたピアニスト、オットー・ゴールドシュミットと結婚する。オットーは、シューマンにピアノを師事した、もの静かな青年で、悲しみや苦しみの中、ジェニーを励まし続けていた。その信仰深く、控えめな姿に、ジェニーは心惹かれて行ったのだ。ジェニーは、スウェーデンの友人に、オットーについて、こう書き送っている。「オットー・ゴールドシュミットは、私がメンデルスゾーンの次に、音楽的にも、人格的にも、とても尊敬できる人です。彼は初めて私の歌を聞いて以来、ずっと私のファンでいたそうです。私は、そんな彼の思いに、まったく気づきませんでした。私が、メンデルスゾーンへの思いに悩み、ギュンタとの婚約と、その破棄という愚かさを繰り返しているときも、彼は、ずっと私の幸せを祈り続けてくれたのです。私は、彼に会って初めて、男と女の愛を超えた、真実の愛の存在を知りました。彼は、年齢は私より下ですが、信仰心が厚く、全てにおいて、私よりずっと大人です。私は、彼のような、誠実な魂を持った人に巡りあわせてくださった神に、心から感謝を捧げています」と。1852年2 月、二人はボストンの教会で結婚式を挙げた。メンデルスゾーンの作曲した「結婚行進曲」の鳴り響く中、二人は、神の前に永遠の愛を誓い合った。ジェニー31歳、オットーは22歳だった。
 ジェニーは夫と共に、以前にもまして慈善コンサートに励んだ。二人には三人の子が与えられ、オットーは王室音楽学校の校長になり、ジェニーも教鞭をとったという。 br> 様々な出会いと別れ、そして歌手としての賜物の用い方と、すべての局面でジェニーは「神を礼拝」する人だった。

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